水の幻視 ~ナンバー278の幻視

益体もない「思索」と「おこない」の点描的記録

かくて世は陰謀にまみれたり 〜3〜


(この文章は「かくて世は陰謀にまみれたり 〜2〜」の続きです。できれば〜1〜からお読みください。 )


実をいうと私は若いころからUFOや超常現象、あるいは陰謀論について書いた本が好きで、と学会が好んで取り上げるような書籍をけっこう大量に読み漁ってきた。
そうしたものに惹かれることについて自己分析すると、理由は大きく2つあるように思う。


一つは、「あったらいいな」と思う心の存在である。
とりわけUFO(空飛ぶ円盤)についてはそう思ってきた。異星人にはさして興味はなかった。他の世界に知的生物がいるとわかったとしても、そこに行けなければ意味はない。空飛ぶ円盤の実在は、恒星間飛行が可能であることの証明になる──これこそ私が恋焦がれてきたことであった。
UFOものの書籍はまさにピンからキリまであるのだが、上述のような真実性を求めるという点から言えば、「もしやこれはホンモノ」と思わせる「ピン」のほうを求めて書籍漁りをすることになる。


もう一つは、なんで人間はこんなにヘンテコなモノ(コト)を信じてしまうのだろう、そこにはどういう心理や性格や利害感覚が絡んでいるのだろう・・・・という好奇心の存在である。カルト教団などに関する興味と同じものである。
この方面から言えば、ピンからキリまである関連書籍のうち「キリ」のほうが面白いということになる。「キリ」の書籍を面白く読むという姿勢はと学会に通じる部分もある。最近のネット用語でいえばウォッチャーということになるかもしれない。


後者「キリ」については、紛いもの、紛いごとへの信心が広く人類を不幸にしてきたという現実もあるので、単純に笑って見ているわけにもいかない。最近ではオウムなどがその代表的な例である。先にも少し触れたが、アメリカにおけるキリスト教ファンダメンタリズムの動向にも不気味なものがある。


おそらく、宗教的教義やイデオロギーと言われるものはすべてこの範疇に属する。政治的イデオロギーには、多岐に渡る人間の価値観をなんとかかんとか縫い合わせて最大多数が利益を得られるようにするための経験的方便という色彩があるから──それは少数の利益独占を解体する方向に進んできていると信じたい──科学的視点からは紛いごとであったとしても、存在を認めざるをえないということもあろう。



まあ、しかし、ウォッチャーとしては、つくづく人間というのは「理由」がなければ生きられない生き物だなあと思う。


人生はままならない。
作付けのころ雨は降らず、暖かくまどろむ家族を洪水が襲う。他人は悪口ばかり言うし、一生懸命走っても電車は私を待たずに発車してしまう。仕事はうまくいかず、同僚の視線は冷たい。公共団体や国は庶民に不都合な取り決めばかりしたがるし、国際的にはどうにも弱腰で断固たる主張をしない。その背後には外国の圧力があるようにも見える。
そしてこの私は一向に幸福にならない。
いったい何なんだ・・・と天に拳を振り上げたくもなる。


それらはすべて別個に起こっている不幸だ。しかし、どこか形而上でつながっているように見える。
誰かが、何かが、私を不幸にしようとしている。
その誰か(何か)を何とか見つけたいのだ。
見つけさえすれば回避できるに違いない。・・・・・


──それが、人間の弱さだ。
宗教やイデオロギーは、とにかく「答え」をくれる。
「答え」は怒りや感謝のぶつけどころであり、行動の指針だ。
しかし、真実の答えはとうていそんなものではない。複雑で、理解も納得もしにくく、さっぱり劇的ではない。
われわれは、その「なんでもなさ」に耐えねばならない。
耐えられない人は、明快な答えを捏造するしかない。いや、誰かに捏造してもらうしかない。


しかし、複雑で理解も納得もしがたいものの中にこそ、知の愉悦は、おそらくある。
教育は、そこを目指す必要があるだろう。
功利的に結論だけを急かす教育の失敗が、不幸の原因を自省しない体質を国民に与えたのではないか。
ネット上のざわめきを、私はまだ読み解けないが、これからも耳を傾け続けるだろう。


(この話はここで終わり)