水の幻視 ~ナンバー278の幻視

益体もない「思索」と「おこない」の点描的記録

ヒト──汝か弱きもの 〜1〜


前回、終わりのほうで「それが、人間の弱さだ」と書いた。
しかし後から、いや「強さ」かもしれないぞ、と考え直した。──ひねくれ思考の一つである。


考えてみると、人間ほど弱々しい哺乳類は珍しい。
毛皮がないので寒さに弱い。身を守る角もなければ鋭い牙もない。もちろん鉤爪も。


げっ歯類──例えばリスを思い浮かべてみよう。彼らは小さくて動作に愛嬌があり、黒目がちの目もつぶらで可愛らしい。そんな彼らの手指・足指を拡大して見てみると何が見えるか。
そこにあるのは“邪悪”な鉤爪だ。それは球果を把握したり急勾配を登るために発達したものだろう。もとより殺傷を目的とはしないが、それでもその気になれば人間の皮膚を簡単に切り裂けるだろう。強力な門歯ならなおのこと。


それに比べると人間の手はでかいだけでいかにもヤワだ。足は歩行のみの道具にすぎない。意味のない想像ではあるが、もし人間がリスのサイズに縮小したとしたら、まったく相手にならないだろう。皮膚は薄くて傷つきやすいだけではなく、ちょっと紫外線に当たると大変なことになる。寒ければ寒いですぐ凍えてしまう。
生身の人間は、図体の割には極めて脆弱だ。


進化というものを考えるとき、どうしても卵かニワトリかという喩えを思い出す。
人間は、脆弱な肉体を持つがゆえに知性を発達させたのだろうか。それとも、知性の発達が武器や衣服の製作を可能にしたおかげで、肉体がどんどん脆弱化したのだろうか。
まあ、両方あるのだろう。それに、ある特定の環境に過適応──それは、分厚い毛皮や強力な鉤爪を持つことを意味するが──してしまうと、系統的な意味では長生きできないのかもしれない。


人間の弱さは、実はもう一つある。
本能への依存度の少なさだ。人間の赤ん坊は、いってみれば白紙状態で生まれてくる。生存させるために、まずはフォーマットしてやり、さらにさまざまなプログラムのインストールが必要となる。大変手間と時間がかかる。生まれたてのヒトの赤ん坊はそういうわけで、掛け値なしに弱い。
しかし、もちろんそのような生存戦略が、結果として人間に種生物としての“強さ”をもたらしているのだから、このパラグラフの冒頭で述べた“もう一つの弱さ”というのは逆説である。


大切なことは、そういう特性が人間の生活や行動に文化様式というものをもたらすということだ。


本能に生存の術を依存する生物は、その本能のあり方──DNAに書き込まれた初期プログラムに直接淘汰の圧力がかかるだろう。
しかし、百獣の王よりもはるか上に立ってしまった人間の場合は、初期プログラムではなく、二次プログラムとも言うべき文化様式に淘汰圧がかかる。“家”に伝わる個別的文化様式もあれば、“社会”が担う地域的文化様式もあろうけれど、それらは、人と人が個別で、あるいは集団で“関わり合う”さまざまな局面において競合し、淘汰の力に晒されるだろう。
ごくごく単純化していえば、“有力な”文化様式だけが“選択”されるわけだ。


前回(3月9日)、「つくづく人間というのは『理由』がなければ生きられない生き物だなあ」と書いたけれど、人間の系統的な発達において、おそらくそういう性質であったほうが「生存に適していた」のだろう。淘汰圧に耐えやすかったということだ。「わかりやすい答えを求め、それに満足できるヒト」のほうが遺伝子を残しやすく、世はそういうヒトに席巻されていく。・・・・というわけだ。


ゆえに、私は、「それが人間の弱さだ」ということではなくて、「強さ」なのかもしれないぞ、と思い直したわけである。



では、なぜそういうことが起こるのだろうか。
なぜ、「わかりやすい答えを求め、それに満足できるヒト」のほうが生存に有利なのだろうか。


●今日一日生きられたことを天に感謝しよう。
●私たちが不幸なのは、神が試練を与えているからだ。がんばって耐え抜こう。
●少年犯罪が凶悪化し増えているのは、国民の心が荒んでいるからだ。
●労働はそれ自体が尊い。報酬の多寡だけに捉われてはならない。
●“国”とは国土と国民の合計以上のもの。その物理的存在を超えた部分こそ忠誠心を向けるべき。


あなたはこういったことを信じますか?
こういった考え方が、社会的生活や個人的生活において大切だと思いますか?


各項目について、Yesと答える人が多いなら、みんながそういう風に考えたほうがこの世は生きやすいということだ。私は考え方の善し悪しを裁定しようとしているのではない。特定の宗教も想定していない。そこは誤解なきよう。
もし、Yesと答える人が多いのなら、少なくとも日本の文化様式はそういった考え方を是とする方向に“成型”されてきたのだ。私が裁定するのではなく。そう考えるほうが結果としては生存しやすかったのだ。もちろん、Noの場合はその逆である。


目に見えない“大きな存在”に敬いと惧れを持ち、自省的で、あまり不平を言わず、識者や指導者の言説を信じ、日々努力することで幸福を感じる──そんな人間像が脳裏をよぎる。
そんなヒトが、生存しやすかったのだろうか。淘汰を勝ち抜いて。
そうかもしれない。


(この文章は次に続く)