水の幻視 ~ナンバー278の幻視

益体もない「思索」と「おこない」の点描的記録

インポート完了

Hatena Diaryのサービスが終了するというので、とりあえず2006年から放置してある古いコンテンツをHatena Blogにインポートした。

どうやら、Diaryのほうのすべてのエントリを、こちらでは1つの巨大エントリとしてしかインポートできないらしい。

まあ、せっかく書いたテキストが保存できれば当面はよしとしよう。

いずれまた、何か書くかもしれない。そのときに全体を整理することにする。

 

Reload


諸般の事情があって、しばらくブログを休んでいた。


再開するつもりだが、それに伴ってブログサービスをハテナに乗り換えることにした。以前から高機能型のブログに換えたかったが、FC2にするかハテナにするかで迷っていたのである。
インポート機能があるブログなら、exciteで書いた内容を移植できると思っていた。ところがどっこい、exciteブログにはエクスポート機能がなかった。てなわけで、結局過去の文章を一つひとつコピーする羽目になった。
当面あちらも残しておくつもりではある。


ちなみに、ハテナを選んだのは、この企業が、いわゆるWeb2.0といわれるフィールドに属する、毒になるか薬になるかわからないような、しかし「面白そうな」取り組みをいろいろとしているからである。


exciteブログでは、長い文章の場合、同日に3分割してアップしていた。しかし、ハテナではそのようにすると、同じ記事内での章分けといった体裁になってしまう。たぶん私が機能をよく理解していないだけかとも思うのだが。
3分割した文章は3つ別々のコンテンツとして置いておきたいので、移植に際しては投稿日を1日ずつずらすという処理を施した。そのような体裁の3分割文章は、先頭の文章の日付が、かつて実際に投稿した日である。



私はブログを日記としては書かないつもりである。
そもそも日記を書く習慣はなく、日々大したことを考えているわけでもない。
しかし、電車を待つホームで、ぼんやりした休日の部屋で、あるいはパソコンでいろいろなサイトを見るともなしに見ているとき、頭の中を形になりそうな思考が過っていくことはある。それは思考の滓ともいうべきもので、放っておくとすぐ沈積し、底の軟泥にまぎれてしまう。


そういうことを惜しいと感じる歳になった。


これから、限られた時間の中で何か形あるものを残していくためには、益体もない思考の滓であったとしても、掬っておくべきかもしれない。
そんなわけで、やはりブログは続けようと思う。
基本的には独り言であるが、反応する人がいてくれれば、それはそれで幸いである。

困難な議論

集団ストーカー言説への私の興味は、まだ費えていない。
そのようなわけで、時間に余裕のあるときには匿名BBSの残滓をあさるといったことを繰り返している。匿名BBSを過去ログも含めて調査することで、「被害者」と「アンチ」の動向を計量的に表せないかと考えているのだが、参照できるデータが膨大すぎるのと時間が取れないのとで手をつけられないでいる。


※集団ストーカー言説への批判者には、様々なスタンスがある。ここでは都合上、それらを十把一絡げにして「アンチ」と表現している。ゆえに、私自身も「アンチ」に入ってしまうだろう。



半年ほど前になるが、ここで集団ストーカー言説に触れたとき、私は次のようなことを書いた。


某巨大匿名掲示版やそれに類する掲示版群では、「集団ストーカー被害者は、精神病者だ。」「いや、集団ストーカー加害者は、被害者をして、精神病者じみた発言をせざるをえないような状況へ追い込むのだ。」といった水掛け論が続いている。[2005.12.25]


しかし、その後の観察では、必ずしも上記の通りではないことが判ってきた。集団ストーカーに言及したスレッドは、過去ログとして存在するものが多い。上記は、それらも含めて全体を観察したときに受けた印象なのだが、発言の日付をよく見てみると、定常的にそのような状態があるわけではないのだ。


2004年にはかまびすしかった「被害者」と「アンチ」のBBS上での応酬は、2005年から下火になり、2006年の現在では、かなり沈静化しているように見える。集団ストーカー騒ぎ自体が鎮まったというわけではない。未だ「被害者の主張」は続いていて、2chでもザ掲示板でも、内部検索をかけると生きているスレッドがかなりの数ヒットする。「アンチ」の発言が減っているせいで「被害者」の主張は、被害内容報告や、憶測の変奏と展開、また、創価学会や警察など「被害者」たちが陰謀の元締めと目する組織への批難に終始している。


むろん、上に記した集団ストーカー言説をとりまく状況は、局所を対象とした私的観察結果の域を出ない。ネットに溢れている膨大な量の発言をすべて読むわけにはいかないからだ。そんなわけで、「被害者」と「アンチ」の発言数の比を、過去ログも含めた複数スレッドにおいてそれぞれ計算し、時系列で並べてみたらどうかと考えたわけだ。もう少し厳密なやり方として、「被害者」「アンチ」双方の発言内容を、方向性や程度によって点数化し、その積算値を比較考量するという方法も可能かもしれない。いずれにしても時間が必要だが。


それはいずれやってみるか、あるいは誰かが似たようなことをやるのを待つことにして・・・・
数値による根拠は現段階では示せないものの、私が観察した限りにおいては「アンチ」の発言が減っているように見える──このことを前提にして、以下話を進めたいと思う。
もちろん、一つのテーマに関する議論が定常的に継続することなどありえない。集団ストーカー騒動は、どのような論争もが等しく辿る盛衰の道を歩んでいるだけだと見ることもできるだろう。
ただ、推論の積み重ねにはなってしまうが、私はそこに「ちょっと違う匂い」を感じるのだ。


掲示板に書かれている被害談は、いずれも統合失調症や他の妄想性障害の病者が語る内容に非常によく似ている。それらにも当然スペクトル分布はあるわけで、他者から監視や尾行をされているといった在りえなくはないものから、生活音や自然音を嫌がらせや攻撃と解釈するもの、あるいは特殊装置によって自分の思考が読まれるといった荒唐無稽なものまで多くを含んでいる。しかし、いずれもがありふれた精神疾患の解説文を眺めれば簡単に見つかるような話で、被害妄想としては典型的なパターンである。
オッカムの剃刀を使えば、このような発言に明け暮れる「被害者」の大半は、被害妄想を伴う病的状態に陥っていると判断するのが妥当であろう。(公平を期すために書いておくが、それは集団ストーカーという事象自体の存否には、決定的な影響をもたらさないだろう。)


私が感じている「ちょっと違う匂い」とは、「被害者」側の主張が長期にわたって比較的定常的だということである。有体に言えば、同じ話が延々と繰り返されるばかりで倦むことがない。批判を受けても、被害訴求を主とするあまたの言説は総体としては変形しない。


一つだけ、時間的に変化してきているなと思えるのは、集団ストーカーの犯人と目される組織が、例えば創価学会など、いくつかの組織に絞られてきているということだろうか。あるBBSのスレッドでは、集団ストーカーへの言及よりも創価学会批判がメインになってしまっていたりする。誰が何のために自分を攻撃してくるのか判らず悩んでいた「被害者」に、明確な「答え」が与えられ、そこに共通の敵を持つコミュニティが形成されたことをそれは示している。肯定的言説のみを取り込んで、支流は大河へと合流するわけだ。


※これも局所的な見方かもしれないが、BBSの過去ログをいくつか読む限りでは、2004年ぐらいまでは「誰かわからないなぞの集団から、意味不明の攻撃を受け、混乱に陥っている」という発言が多かったように思う。「被害者」たちが一様に特定団体を名指しするようになってきたのは最近のことではないだろうか。


しかし、その「変形しにくい言説の強固さ」そのものが、妄想らしい臭気の根源でもある。
「アンチ」は堂々巡りする言葉の応酬にすぐ倦んでしまって、結果として議論に勝てないのだ。「倦む」ということは、精神的健全のバロメータなのかもしれない。抗力に打ち勝って自らを屹立させ続ける強度という面では、妄想には遠く及ばないのだ。



いや、そもそも、このような場合議論は可能なのだろうか。


「アンチ」には様々な立場があるということを冒頭のほうで書いたが、匿名BBSなどでの発言の端々には総じて妄想的言説に対する嫌悪が見え隠れする。嫌悪が混じってしまうと、批判はフェアにはならない。しかも「被害者」は、そのことにはきわめて敏感だ。批判者の発する嫌悪の匂いを嗅ぎ取ってしまうと、「被害者」はより頑なになり、自らの思考の中に閉じこもってしまう。


一時期テレビ局はこぞってパナウェーブという団体を取り上げた。あの団体の主張(特に教祖の発言)が、統合失調症の病者のそれに類似することは、ちょっと知識のある人にならすぐわかるだろう。知的に高いレベルにあるはずのマスコミ関係者(特にプロデューサーレベルの人)の誰一人としてそれに気づかないなどということは考えられない。おそらくマスコミ関係者たちはそういうことを知った上で、あの団体の「奇妙さ」「気味悪さ」を強調し、視聴者の嫌悪感を煽ったのだ。もちろん人権問題で糾弾されない程度に。
そういう「嫌悪の煽動」は、残念なことに自らを健全と信じる民衆の共感を呼びやすい。


異質なものへの嫌悪感は誰にもあるものだ。私自身もそれを否定できない。
このことは、かつて集団ストーカー被害者の心性について書いた際にも言及したが、同様のことは「アンチ」の側にも言えるだろう。


もう一つ。ネットにおいては、相手の自己申告を前提にしなければ議論できないという問題がある。相手の自己申告を議論の中で否定してみても、現実的には検証しようがないのだから、推論の域を脱することはできない。相手の申告を否定する推論を押し付けるわけにはいかないのだ。
集団ストーカー論議においては、「被害者」は「アンチ」を「工作員」と見なすケースが多く、言うまでもなくこれこそ「否定的推論の押し付け」に他ならない。しかし、「アンチ」にはそれに対抗しないストイシズムが要求される。否定的推論をするのはかまわない。しかしそれを腹の中に収めて進めなければ、議論は不毛なフレーミングに終始してしまうだろう。



少なくとも議論の前提としては、上記のような相手に対する嫌悪感や否定的推論押し付けの排除といったことがまずもって必要である。
しかし、それでもだ。本当に議論は可能なのだろうか。


「アンチ」で、揶揄や茶化しとしてではなく、真摯に「被害者」への批判を試みる人の多くは、集団ストーカー言説が統合失調症などの精神疾患から生じる妄想である可能性を指摘している。それなりに精神病についても勉強しているのだろう。
しかし、勉強したのならば、統合失調症の病者に向かって正面から「君の話は妄想だ」と告げることの無意味さや、あるいは危険性についても知っているはずだ。ケースにもよるが、精神科医は、病者が切々と訴える妄想を強く否定するということをあまりしない。病識のない病者をかえって頑なにさせ、治療を困難にしてしまう可能性があるからだ。つまり、「アンチ」という立場で「集団ストーカー被害者」に対峙する場合、相手が統合失調症に罹患していると考えるのならば、それをストレートに指摘することはできないということだ。


ここにはすなわち・・・・


相手の言説が統合失調症(等)の妄想によるものである可能性が高いことを、ネットを通じて当人に納得させることは、相手が精神的健常者であるときに限り可能である。


という原理が横たわる。もちろんこれは矛盾である。
つまり、もし「被害者」たちが、「アンチ」の多くが想像するような病者であるならば、議論による説得は原理的に不可能なのだ。
それが、BBSでの議論で「アンチ」たちが敗れて撤退していく理由ではないのか。


以前にも書いたようにこの現象をMeem伝染病だと考えると、当のMeemはきわめて巧妙な生存戦略を展開していると言わざるをえない。
このような現象が進行していることを世のほとんどの人は知らない。このMeem感染を未然に防ぐためには、皮肉なことに「被害者」たちの望みを叶えて、現象自体をもっと世に知らしめることが必要なのかもしれない。
ただし、そのためには、この現象を正しく分析し、ニュートラルな状態にある一般人をして集団ストーカー言説に対するリテラシーを高めるような情報発信サイトが必要だろう。BBSで「被害者」たちと議論するのではなく。キーワード検索でそういうサイトが上位に複数ひっかかるようになれば状況は多少改善するに違いない。
現段階では、そのような正しき「アンチ」による情報発信サイト(vaccine site)は、まだまだ少ないように思う。



補遺1:集団ストーカーの歴史に関するメモ
集団ストーカーに関する言説はいったいいつごろから登場したのだろう。
サブカルチャーへの言及で一時代を築いた「別冊宝島」の旧タイプには、
「(281)隣のサイコさん」(1996.11.3)
「(356)実録!サイコさんからの手紙」(1998.1.3)
などの、精神疾患の世界をサブカルのイメージで紹介した号がある。
前者には、盗聴器発見業者を取材して「サイコな依頼者たち」に言及した記事がある。「依頼者」の談話はまさに集団ストーカー「被害者」のそれと同一である。この時代に集団ストーカーという言葉が存在していたら、間違いなくここで使われたであろう。
後者には、「組織犯罪としてある見えないテクノロジーによる被害者の会」で有名な石橋輝勝氏への取材記事か載っている。このとき氏はまだ市会議員になっていない。しかし精力的に活動していた様子が伝わってくる。
集団ストーカーという言葉自体は比較的新しいものだろうが、同様の「被害者」は昔から存在していることをうかがわせる。これが何を意味するかは敢えて書くまでもなかろう。


補遺2:思考盗聴
ヒューマン=マシンインターフェイスの進歩は著しい。2005年11月に放映されたNHKスペシャル立花隆最前線報告 サイボーグ技術が人類を変える」や、2006年4月に放映されたプレミアム10立花隆が探る サイボーグの衝撃」を見た人は多いだろう。
さほど遠くない過去には、神経系と機械とを接続するのは不可能だといわれていた。しかし、今では極めて初歩的ながら機械で観取した映像を電極を通じて脳に認識させることが可能なまでに技術が進んでいる。
私は「SF者」だから、ここまできたら本物以上に高性能な義眼・義肢・義手などが登場するのも時間の問題だろうと考える。
ポイントはヒューマン=マシンインターフェイスにある。思考盗聴を主張する者たちの多くは、インターフェイスを経ずして電磁波が脳細胞に直接作用しうると考えている。それは彼らの「体感」なのだから仕方がないのかもしれない。しかし、もちろん電磁波である電波は細胞に直接作用しないし、電磁波である可視光はそもそも頭蓋を透過できない。
脳内の状況を電波などで体外に発信できたり、あるいは外部の情報を電波を通じて受け取ったりできるインターフェイスもいずれできるだろう。しかし、人類が「思考」の過程を解析できない限り、インターフェイスを通じて脳から発信された情報から、映像や言語やその他の感覚の総合物としての「思考」を再現することはできないだろう。もちろん、人間のことだから、それもいずれは解決してしまうだろうと思うが。
おそらくそのころには、統合失調症を駆逐する技術も完成しているに違いない。

気体になった男の帰る夜の街

日中、ようやく暑くなりだした。
湿気の多い蒸し暑い夜には、特有のあの匂いが、風に乗って街を覆うようになるだろう。それは、海の匂いであり、川の匂いであり、水の匂いであり、街と腐敗の匂いであり、生きとし生ける物の匂いでもある。私の想像では、それは港湾のほうから河口を遡行し、川に沿って周辺の街並みに拡散していくようだ。
空調の効いた無臭のビル内から外に出た瞬間、湿り気を帯びたむせ返るような熱気とともに、その匂いが私を襲う。


海は近くにあることを主張している。微妙に入り混じる磯臭さとは異質の“濁り”は、川の存在の暗喩だ。乾燥した内陸の街には絶対になかった匂い。これを私は「この街の大気だ」と、誰彼にとなく告げるのだが、ぴんと来る人は少ないようだ。


17の春にこの街を去るまでは、私自身「ぴんと来ない」一人であったかもしれない。両親にとっては捨てるのにためらいの少ない異郷の地であったこの街も、私にとっては生まれ故郷に他ならなかった。ゆえによそで暮らしていた二十数年の間に、懐かしさから何度も「里帰り」を敢行している。その度に出迎えてくれたのがこの匂いだった。私の脳には「この街の大気」としてすっかり焼きついてしまっている。
時は流れ、天の配剤とも言うべきか、私はこの街で再び暮らすこととなった。


「この街の大気」を、昼間に感じることは少ない。街が活発な間は、車の排気やなんやかんやで、カムフラージュされているのかもしれない。あるいは風向きの問題だろうか。海風はふつう昼間から夜半にかけて海から内陸へと吹き寄せる風だ。(陸の構成物は水より比熱が小さいので、太陽熱ですぐに温まって地表付近の空気を上昇させる。その結果気圧が低下し、そこに海から涼しい風が吹き寄せるというわけだ。)だとすると、昼間から匂ってもよさそうなはずなのだが。


あるいは、海から川へとつながる「水の塊の全体」が発している体臭のようなものなのだろうか。



浴衣を着、家の前の床机に座って、花火を眺めていた夜。
クーラーなどはなく、うちわで扇ぐ風が、「この街の大気」を静かに顔へと送り込む。
ほとんど星のない夜空。
ごくまれに吹く微かな風が体ににじむ汗を気化させるとき、この上なき涼風と感じたものだった。


人間は、この間に少し賢くなった。
きわめてゆっくりと、川も海も清浄を取り戻していくだろう。
私も、いつまで「この街の大気」を感じていられるのだろうか、と考える歳になった。

連休釣行記 その三

日:5月4日
場所:松山 三津浜港

翌日。昨日と同じ場所に出かける。



海は、どうしてこうも私をひきつけるのだろうか。
釣りに関しては、どうせ今日も大したものは釣れないだろうというよろしくない予感があった。必死に釣果を求めるわけでもないから装備は中途半端だし、ワザも初心者に毛が生えた程度だ。(長年やっているのだが、頻度があまりにも低いから上達しないのだ。)


しかし、それでも海に行きたくてたまらない。海まで車で10分という妻の実家に来ているのに、家でごろごろしたり街中で買い物したりなど、無意味なことに時間を使いたくない。


私は大都会育ちで、身近な自然といえば、汚染された近所の川しかなかった。小学校時代、水難事故防止の観点から子ども同士でその川へ出かけることは禁じられていたのだが、私は何度も禁を犯している。学校で問題にされたり、親から体罰を伴う叱責を受けたこともあった。まあ、大人にとってみれば、子どもの危険行為を看過するわけにはいかないということだったろう。今なら納得できる。しかし、まったく自由な自然散策が子どもに与えるものは、ある程度のリスクを伴うとはいえ、「安全な箱庭」の中でのそれとは質的にまったく異なるのではないかと今さらながらに思う。


私を叱責した親ではあるが、特に母親のほうは自然や生き物が好きで、ときおりその川へいっては、ゴカイやカレイの稚魚(5センチ以下)、タニシなどを採取してきて見せてくれた。河口に近い汽水域だから、海水性の生き物と淡水性の生き物が入り混じっていた。川は汚染されていたが、流れのある大河ゆえに、生物たちの生き残る余地もあったのだろう。川沿いのワンドでは、地元の高校の生物研究部が、天然記念物の魚を発見・・・というようなこともあった。昭和60年代の話である。


中学生のころ、国語の教科書で海辺の散策をテーマにした随筆を読んだ。作者も題名も忘れてしまったが、浜辺を散策しているときの様々な発見を静かな筆致でしたためた文章だった。風向きや潮の流れで毎日ちがった表情を見せる海辺。浜に落ちている様々なもの。青磁の陶器片は、大昔、中国との貿易船が難破したとき海底に沈んだ陶器に由来するのだろうという。
その随筆は、私の想像力をかきたてた。強く魅了された私は、海に焦がれるようになる。


当時、近所の海は、コンクリートに切り取られ、どす黒い水を湛えていた。港の油じみた水のたゆたいを今も夢に見るほどだ。家族での旅行などもほとんど行われなかった時代。とはいえ私は海水浴も経験していたし、遠足・臨海学校・修学旅行などで海のそばへ行ったこともあったのだが、じっくり心ゆくまで美しい海のそばにいたという経験は皆無だった。
ちなみに、小学校の修学旅行は伊勢志摩だった。引き潮で陸続きになった夫婦岩近辺で、散策に夢中になった私は、親から持たされていたカメラを紛失している。当時カメラは高価で貴重品だった。あの金属製のカメラは、もしかしたら砂に埋もれてフジツボなど着生生物の巣になっているかもしれない。いや、もう海水に溶けてしまったろうか。


海に魅せられた私ではあったが、70年代半ばには親の仕事の関係で関東の海無し県に転居することになる。それでも、生まれ育った大都市に比べると周りは自然だらけで、とりあえず私は淡水域の探索で満足した。
海に興味が戻るのは、大学時代、車の免許を取り行動範囲が広がってからである。独身時代には長期休暇ごとに気の会う友人と車で気ままな旅に出向いたものだが、それは必ず海のそばであった。就職後もそれは続く。


20年ほど前、盆休暇のときのこと。
三陸のとある漁港で、夜、酒を飲みながら、何の予備知識も成算もなく投げた釣り針に巨大なアナゴがかかったことが、海釣りを始めるきっかけとなった。川釣りとは違って何がかかってくるかわからないゾクゾク感が私の心を捉えて放さなかった。
予約もせず民宿を渡り歩いた乱暴な旅。いざとなれば車で眠ることに何の抵抗感もなかったあの若さ。
暑かったあの夏が今も懐かしい。


つい、長々と余談をしてしまった。
で、問題は5月4日の釣りである。
ご想像のとおりこの日は前日ほどの釣果は出なかった。妻の実家には、義兄たちも到着するということで、あまり海に長居することができなかった、と言い訳しておこう。


しかし、たった二匹だった獲物の一方は、地元の老人が覗き込んで「こいつは幻の魚だよ」と教えたくれた。めったにお目にかかることはできないのだそうだ。釣った瞬間は、メバルカサゴだと思ったのだが、たしかによく見てみるとどちらでもない。体は、赤・茶・褐色のまだらで、カサゴほど頭が大きくはなく、メバルほど目がぱっちりしていない。



老人は「モホゴ」と呼んでいた。「ホゴ」というのは、方言でカサゴ(関西ではガシラ)のことである。「モ」というのは、海藻のことだそうだ。藻場に棲むカサゴの仲間という意味だろう。
帰ってから図鑑で調べてみたが、おそらくヨロイメバルという魚ではないかと思われる。
小さかったが煮付けで食べてると美味であった。


いよいよ、夏がやってくる。
このブログで、一度は「大漁」または「大物GET」の報告をしたいものだ。
しかし、釣りをするしないに関わらず、歳とともに私はますます海に吸い寄せられていくだろう。


釣果:ヨロシメバル1(15センチ)、メゴチ1(20センチ)

連休釣行記 その二

日:5月3日
場所:松山 三津浜港



連休で帰省中、例によって松山の三津浜港、フェリー乗り場横の波止に出かける。昨年のお盆以来である。
前にも書いたとおり、ここでは35センチ超のカレイを上げた実績がある。
天気がいい。対岸にある梅津寺パークから、拡声器の音が聞こえる。テレビの特撮番組のキャラクターによるイベントが行われているらしい。ときおり子どもたちの歓声が上がる。
いい雰囲気だ。



11時近くに現地到着。
最初、人がいて中途半端なポジションで竿を出さざるをえなかった。しかし昼時も近く、朝早くから来ているらしい人たちがポツポツと帰り始めたため、テトラが入って海底が入り組んでいると思われる東側の場所がうまい具合に空いた。さっと移動する。


釣り人たちは、今年はさっぱり釣れないとぼやいている。
ここは、サビキでアジ釣りをする人が多いのだが、今年はアジがまだ回ってきていないのだそうだ。確かに例年に比べると今年は寒かった。5月になっても、海のそばではウィンドブレーカーが必要かな、という気がするぐらいだ。
ということは、水温はまだ低いのだろう。波止で釣れるアジは「夏の魚」というイメージが強い。海中はまだようやく春の初めといった感じなのだろう。


しかし、私はサビキをしに来たのではない。
志は高いのだ。(実は、投げで釣れない場合はサビキをしようと、サビキ用のオキアミブロックは買ってあったのだが。・・・・・)


投げ竿は、一本は遠投。もう一本は、根掛かり覚悟で、海底が入り組んでいると思われる「近場」に投げ込む。
投げ込んだ瞬間、当たりがあった。
急いで引き上げる。最初はアイナメかと思った。15センチほどの根魚である。しかし、よく見ると少し違う。おそらく、アイナメの近縁種であるクジメであろう。とりあえず、海水を入れたポリ容器に放り込む。例年に比べて肌寒いとはいっても、さすがに日差しは強い。ビニール袋に入れた氷を魚の入った容器に入れる。魚を生かしておいて鮮度を保つためである。


しばらく後、さらに大きな当たり。
今度はずいぶんと竿が重い。またカレイか・・・・と思ったが違った。しかし、今度は正真正銘アイナメが上がってきた。30センチはあるだろう。一昨年のカレイに続き、ここで釣った2番目の大物である。腹がぼってりしていていかにも脂がのっていそうだ。
喜び勇んで、容器に入れる。



しかし、残念ながらその後はさっぱりあたりが出なかった。
午後3時ごろ、帰り支度を始めるとともに、隣に来た老人に、使わなかったサビキ用のオキアミブロックを進呈。老人はそのオキアミですぐ小さなアジを一匹釣り上げ、記念にどうぞ、と私にくれた。
調子のいいときなら、このようなアジはサビキ仕掛けに5・6匹鈴なりになって上がってくる。小一時間も続ければ数十匹にも百匹にもなる。今年はやはりだめだそうだ。
遅れているだけだと信じたい。


妻からの携帯電話による「早く帰れ」という声もあり。
3時30分に引き上げ。


釣果:クジメ1(15センチ)、アイナメ1(30センチ)、アジ1(8センチ・もらい物)

連休釣行記 その一

今年の4月は例年に比べてずいぶん寒かったような思う。
それでも、連休の前ぐらいからようやく「いい季節」がやってきた。もちろん、釣り師にとってである。
(ホンモノの釣り師なら気候など気にしない・・・というなかれ。休日釣り師である私にとっては、仕事に差し支えず健康的に釣りのできる「気候」はやはりきわめて重要な要素なのである。)



日:4月30日。
場所:アジュール舞子〜明石ベランダ


今年の初釣りである。
5時起きして、下道を車をとばして明石方面へ。垂水の国道2号線沿いにある釣具屋で仲間と待ち合わせる。この時間帯、さすがに道はすいていたが、やはり60kmを越える道のりを高速を使わず1時間で走り切るのはむずかしい。釣具屋についたとき、すでに午前7時になっていた。
投げ釣りでカレイなんぞが釣れたらいいなあと考えていた──というのは、前日インターネットで「明石大橋の下で35センチのカレイを上げた人がいる」との情報を見たからである。


7時30分。車を駐車場に入れて、約10分の徒歩で、まずは大橋の下へ。大型連休に突入している人も多いのだろう。手摺のついたベランダにはすでに「釣り師」たちが並んでいた。家族連れも多い。
本来、5時に釣り始めるというぐらいの根性が必要なのだが、朝がからきしだめな私にとっては、これでもかなり頑張ったほうだった。


一見して、誰も釣れていない。
我々よりずっと早くから来ているらしい投げ釣りの人が、掌サイズのカレイを上げたが、それ以外は、誰の竿先も静止したままだ。


さっそく準備に取り掛かる。
投げ釣り用の竿を2本用意。一本は遠投し、一本は近場へちょんと投げる。
そのまま放置して、別途短竿を用意し、そちらは胴突き仕掛けで岸沿い、自分の立つ真下をそろそろと探る。
しばらくそのまま待機。どの竿も、ピクリともしない。


魚の活性の高いときなら、短竿にはちょこまかとした当たりが必ず出る。メバルカサゴ(ガシラ)、ベラ、アジ、カワハギなど、いずれも稚魚の間は岸のそばにいて「エサ取り」をするのだ。カサゴなどはけっこうでかいサイズか岸に寄っていることもある。
しかし、この日は魚信がまったく得られなかった。ときどき投げ竿のリールを巻き上げてみるのだが、エサがかじられた形跡もない。
1時間あまり粘ったが、さっさと諦め、場所を移動することに。


荷物をまとめ、車に積み込む。さて、次はどこに行こうか。
昨年見学だけはしたが結局竿を出さなかった明石ベランダへ行ってみようということになった。明石大橋の西側、ちょうど明石市役所の裏手から西方向へ、波止がベランダ状になって家族向け釣り場になっているのだ。
先ほどまでいたアジュール舞子、このブログでも以前紹介した大蔵海岸、そしてこの明石ベランダは、実はすべて横並びになっている。もう8年もたつが、明石大橋ができるのに前後して、一挙に整備されたのだ。


着いてみると、明石ベランダも人でいっぱいだった。竿を出せないというほどでもないので、ともあれ準備を始める。場所はベランダの東のはずれ、市役所の真裏近くである。このベランダは西へ数百メートル続いており、明石港につながっている。たこフェリー乗り場の辺りへだ。その辺りも釣り場として面白そうなのだが、駐車場から遠いので行く気にならなかった。(あとで判明するのだが、明石港に面した辺りは砕石や砂の置き場になっていて、休日は車が停められるらしい。)


明石ベランダの真下はかなり浅く、ワカメのような海藻が群生しているのが見える。引き潮気味だったせいもあるのだが。10メートルぐらい沖から急に深みを増して海中が見えなくなっている。
アジュール舞子でと同様、二本の投げ竿を設置。短竿で藻の間を探る。


潮が変わったせいか、投げ竿に当たりのような動きがある。
上げてみると、魚はかかっていないが、エサがかじられているような気配はあった。
仲間の投げ竿は、当たりらしきものもないのに、ハリスごと切られて針がなくなっていた。ちょっと悪い予感がする。こういうことをするのは“あいつ”だと相場が決まっているからだ。


時間が過ぎていく。
かすかな当たりはあるような気がするが、魚はさっぱり釣れない。昼過ぎ、仲間が、ベランダの西のほうで店開きしている露店でたこ焼きを買ってくるといってその場を離れていった。
と、その瞬間である。私の投げ竿にちょっと大きめの当たりが。
ぐっと合わせを入れてから、リールを巻き上げる。確かに手ごたえがある。
心の中で「やった」と叫んだ。


海面に、糸に引かれて魚影が踊った。その瞬間私の肩が落ちる。
“あいつ”だった。20センチはあろうかというでかいフグ。ハリスごとエサを持ち去るエサ取り王者だ。
食えるなら許されるのだが、クサフグは皮から肉から内臓に至るまで猛毒で、自殺する気でもなければ食べることはできない。
ただ、あとから合流した3歳になる仲間の娘さんには、このフグが大受けだった。まあ、その程度の価値はあったということだ。


16時ごろ納竿。
釣果:カサゴ1(体長6センチ)、フグ2(体長20センチ、10センチ)、ヒトデ3