水の幻視 ~ナンバー278の幻視

益体もない「思索」と「おこない」の点描的記録

ディーリアス! -3-

(この文章は「ディーリアス! -2-」の続きです。できれば-1-からお読みください。 )


Man is a mystery; Nature alone is eternally renewing.


「人生は一つの謎、自然は永遠に回帰する」とでも訳せばいいのだろうか。前半を「人間は空しい」と訳している人もいる。その方が正しいのかもしれない。永遠性のある自然に対して、人間というものははかなく、その存在の意味はミステリーである・・・といった意味ではないのかと勝手に想像している。
いずれにせよ、これがディーリアスの座右の銘だった。
「レクイエム」におけるスタンスの取り方は明らかにここから来たものであろう。


(不思議なことに、これはマーラーが「大地の歌」の末尾で、自らのテキストによって歌い上げているものと非常によく似ている。去り行く自分と、永遠に回帰する自然。まるでそれまでの人間的な苦悩から解脱したかのように、極めて叙情的な旋律にのって永遠の自然への憧憬が語られ、曲を締めくくる。「永遠に、永遠に・・・・」と、フレーズは7回繰り返されて消えていく。・・・・)



晩年、ディーリアスにとっての全てであった「自然」は、彼の目の前から失われる。
失明と全身麻痺。前述したように、エリック・フェンビーというボランティアの尽力があって、奇跡的に死の前の傑作群は書き留められた。


人間の側に属するディーリアスにとっては、自然はいくら追い求めても届かない永遠の憧憬の中にあった。その憧憬と、そして人間の側に属することの存在論的な哀しさとが、喩えようもないノスタルジックな香りとなって彼の音楽には充満しているように思う。初期のころからそのような雰囲気はあった。「フロリダ組曲」などの民俗的なリズミカルな音楽さえ、微妙な憧憬や懐情に彩られているのだ。
晩年、視力を失うことによって、そんなディーリアスの音楽における憧憬やノスタルジーの情調は、さらに極まったものとなった。夏の北欧の海岸、かつてどこかで愛した女性のこと、それらがたゆたう音楽の中で淡く、切ない残像として流れていく。
夏の歌、告別の歌、シナラ、そして、イルメリン前奏曲、田園詩曲。・・・


音楽素人の戯言を読むより、実際の音楽に接するのが一番だろう。
最近は、ナクソスなど、演奏も録音も非常に優れたソースであるにもかかわらず1000円を切る廉価で、ディーリアスを購入できる。一曲一曲が長いマーラーなどよりはよほどとっつきがいいので、興味を持たれた「未経験者」にはぜひ「経験」することをお薦めしたい。




追記
私が魅入られている作曲家といえば、ディーリアスよりもマーラーの方が長期にわたっている。なにしろ40年近くにもなる。だがマーラーについては、今やこれだけ有名になってしまうと、あらゆるところであらゆる人がコメントを述べていて、何を言っても二番煎じになってしまいそうである。私なりの思いがうまくコトバになりそうであれば、そのとき改めて書くことにしよう。